「ラフ」と「H2」とビキニ


キニは好きだけど、マイクロビキニには逆に萎えたりする。なぜならマイクロビキニは、女の子が積極的にエロくあろうとしているからだ。それがいただけなくて萎える。女の子がどうして好きかと言えばエロいからなのだけど、女の子自身は自身のエロさを否定していてほしい。
 最近またハマって精力的に読んでいるあだち充の、「ラフ」だったか「H2」だったか忘れたが、登場人物のひとりが「女の子の水着は年々面積が小さくなるから長生きしたい」みたいなことを言っていた。いい台詞だし、そしていい時代だと思った。描かれたのはどちらにせよ1990年前後のことで、当時の水着事情は、まだ性に目覚めていなかったのでよく知らないけれど、水着以外のファッションや工業製品がそうであったように、どんどんと野暮ったさが剥がれ落ちていった時代なのだろう。自分が子どものときの写真を見ると、写っている自動車が角ばっていてびっくりしたりする。それがみるみる洗練されていった。水着も、変なけばけばしいものから、ナチュラルに、こじんまりと、女の子の肉体のかわいさが際立つように、研磨されていったのだと思う。すてきな時代。経済的にはバブルが崩壊し、失われた20年とか言われるようになるわけだけど、でも女の子の水着がかわいくなっていったのだから、やっぱりいい時代だと思う。
 その水着がこの2年くらいは変で、トップとボトムをあえてまるで別物のようにしたものや、ボトムが腰の上まであるハイウエストのものなど、おかしなことになっている。水着がこんなことになるようじゃ、ぜんぜんこの世界で長生きしようという希望が持てない。いい時代じゃない。改めるべきだ。ハイウエストボトムで脚長効果とか、バカなことを言うな。得られる効果に対してリスクが高すぎるだろう。笑うと皺ができるから一生笑わない、と言っているようなものだ。生きてて愉しいか。
 文頭でも言ったが、僕は別に水着の面積はもっと小さくなるべきだ、みんなマイクロビキニのようになるべきだ、と言っているわけではない。ある程度の三角トップ、ある程度のローライズボトムならそれでいい。面積はそこでストップでいい。将棋が、かつてはもっと盤が広く駒が多かったのが、時代を経て今の形に定着したように、野球が、かつては100点を先取したほうのチームの勝利であったのが、現代の9回制になったように、ここで停止していい。ビキニからこれ以上の面積を奪うと、品がなくなる。敬遠が申告制になるみたいなもので、情趣に欠けることになる(僕自身は野球にそれほどの熱情はないので、実際には別に大した問題だと思っていない)。
 それではビキニの面積をもう削れなくなってしまったこの時代に、我々はいかにして、かつての男たちがそうであったように、長生きをすればするほど得だなあという気持ちになれるのだろうか。今年の夏は去年の夏よりもずっといい夏だと思える要素を、どうやって毎年ビキニに盛り込むか。
 僕はそれは、紐だと思うんですね。ビキニの神髄って、生地部分ではなくて、紐にあるんだと思う。これもあだち充を読んでいて悟った。「おっぱいが膨らんだからもう海でビキニの上を失くしはしない」という短歌をつい昨日に詠んだけれど、このエピソードは「ラフ」にも「H2」にも登場した。亜美も春華も、成長途上の薄い胸に無理なビキニを纏い、海で流されたという。本当か。本当にそういうものなのか。膨らみという引っ掛かりがないと、そんなに「ビキニの上」の紐はほどけてしまうものなのか。ものなのだと思う。だって紐はほどけるものだから。ほどけない紐はないから。そしてほどけたらもう水着の面積なんて関係なくて、おっぱいやバンズといったプライベートゾーンがさらけ出される。そこに夢と希望がある。とにかく生きていこうと活力が湧き出る。
 だからもうビキニは、自分の好きな配色の1着を購入したら、それを何年も着ていい。どうせ夏にせいぜい3、4回着るくらいなのだから、普通に考えて何年も持つだろう。それじゃあトレンドに乗り遅れる、だなんて思わなくていい。ましてやそれがハイウエストのごときトレンドなら、放り投げてしまえばいい。その代わり、紐の結び方に凝ればいい。リボン結びのスリルもいいし、本結びの頑丈さもいい。逆に男結びを選んでみる無邪気さにだって惹かれる。ぶきっちょで結ぶのが苦手な子は、簡単にほどけて流されることもあるだろう。そういうとき、紐を強く上手に結んでやれる男になりたい。毎年だんだん、トレンドの紐の結び方は、難解かつほどけやすくなっていけばいい。もう前提として男の力を借りなければ結べないような紐の結び方が流行ればいい。哀しい来歴のビキニだからこそ、ビキニのために、武器を捨て、その研究ばかりが公費で推し進められればいいって思うんだ。