いいんだよ


然とした態度で書きたい。
 時代の趨勢に反しているが、正しいという理念の下、主張をしたい。
 我々は、女子高生に欲情してもよい。
 待ってほしい。通報は待ってほしい。話を聞いてほしい。
 欲情という言葉のイメージがよくないと思う。こう言うと、衝動を抑えられず電車内で痴漢だとか、あるいは金銭を支払って肉体を買うとか、なんか一気にそういう情景が浮かんでしまう。僕は別にそれを許せと言っているのではない。そういうのは卑劣だと思います。許せないと思います。「痴漢モノ」「援助交際モノ」なら話は別ですけど、現実世界でやるのはもちろん駄目。犯罪。完全アウト。
 そういうんじゃなくて、じゃあ逆に、女子高生の太ももとかブラウスとか、そういうものを目の当たりにして、僕たちは心拍を上げたらいけないんですか、心拍が上がらないのが正常だって言うんですか、という話なのである。そんなはずはないのだ。あだち充を読んでいたら、主人公とヒロインの、高校生同士の恋愛および性欲は描かれるのが当り前だとして、その主人公の父親とかも普通に、女子高生のスカートの中や裸を熱心に見たがるのだった。その様を眺めていて、そうだよな、これが普通なんだよな、としみじみと思ったのだ。思えば近ごろはそのことを忘れていた。なにか下手をやらかすとすぐに匿名の批判もとい誹謗中傷が殺到する昨今、外に向けての表現がおとなしくなるのは仕方ないことだが、知らず知らずのうちに自分の思考さえもが縮こまっていた。これは危険なことだと思う。自分の頭の中は自分だけのもので、どんなことを考えたって妄想したって自由であるはずなのに、それを封じ込めようとしていた。危ない! 思考はありとあらゆる外的な制約を超克しなければならない、そうでなければその人が生きている意味はないというのに!
 ちょっと熱くなった。議題は、女子高生に欲情してもいいのか、である。もちろんいい。痴漢や援助交際が駄目で、あだち充の漫画でヒロインのスカートがめくれたのを見ておじさんが喜んだりするのがなぜいいのか。やっていることは同じではないのか。そうではない。あだち充の漫画に出てくるおじさんは、自分の手で女子高生の身体をどうこうしようとはしない。じゃあ同意の上か、と言えばそういうことでもなく、突風が吹いたり、チアリーダーが応援で脚を振り上げたりという、そういう現象に際して女子高生のショーツを目にし喜ぶという、そういう仕組みになっている。つまりそのエロハプニングの発生に自己の差配は介在せず、純然たる授かりものとしてのみ享受している。そこが紳士的と言うか、理知的だと思う。「エロい→触る」ではなく、言わば「エロい→祈る」なのである。男として生まれた瞬間から、人生をかけて熱心にエロいことを頭の中で考え続け、そうやって日々の鍛錬でレベルを上げていたからこそ、神様がときどきもたらしてくださるエロを、余さず味わうことができる。そしてそのエロが斯様に、「男と女」というよりは「男と神」という構造で成り立つものであるがゆえに、その対象は往々にして女子高生になるのだと思う。ここに少し論理の飛躍があったように感じられるので、慎重に言葉を選びつつ説明をしたいが、女子高生っていうのはほら、身体としてはほぼ女性性として完成していて、それでいてまだ俗世間の汚い部分に染まっていない存在じゃないですか。「人間社会の女」ではなく、「きれいな世界の住人(それでいて性的には成熟している)」とでも言おうか。そこがいい。そこがいいんだ。
 だから別に、手を出してどうこうっていうんじゃない。審美眼的な視点で眺めて尊んでいるだけだから、本当に害はない。たとえば夕暮れ時に、雲が後ろから橙色の光線に照らされて縁が透けるようになって、暮れなずむ空の色と混ざり、信じられないほど美しい風景が現れる、そんなときがあるだろう。女子高生のエロスって、そういうものなんじゃないかと思う。それを目の当たりにしたとき、人はどう思うか。この世界に生きている幸福を再認識し、生きているだけで丸儲け、こんなに素晴らしいことはない、と思うのである。
 それをあだち充のおじさんたちは、「ムフ」の一言で表現する。この「ムフ」がいい。たぶん漢字に直すと、「無風」だと思う。「風」という漢字には「さかりがつく」という意味が実はある。だけど突風でめくれたスカートの中を見たおじさんの心は無風だよ、とてもフラットな気持ちで、この世界そのものを肯定して、そして君に欲情しているところだよ、という意味になる。素敵だ。SNSも、「いいね」ボタンなんかじゃなく、「ムフ」ボタンがあればいいと思う。そうしたらインスタグラムとかでたくさん押してやるのに。