いつも携えてくれてありがとうね


的なことについて語るとき、ついおっぱいのことを軽んじてしまう。水着とか、体位とか、なんかそういう付加価値的な要素にばかりかまけて、気がつけばおっぱいそのものを放っぽってしまっていたりする。よくないと思う。たぶん、おっぱいはあまりにも前提的であるために、わざわざ尊ぼうという気が起きないのだと思う。物心ついたときからいつもそばにいた幼なじみの魅力に気づかないのと同じ。そんなことだと、いつか痛い目に遭う。幼なじみがテニス部のキャプテンと付き合いはじめてから、ようやく狂おしい気持ちになるのである。なってからでは遅い。テニス部のキャプテンの手の早さといったら相当なもので、お前が幼なじみとキャプテンとの交際を知ったときには、もう既に幼なじみのおっぱいはキャプテンに死ぬほど蹂躙されている。阿呆かってくらいに揉みしだかれている。もはや触れられていないときでもいつもキャプテンの手の感覚が残っていて、そのことを意識すると体の奥のほうが熱くなってくるくらいの感じになっている。
 だからそうならないために、常におっぱいへの感謝の気持ちを持って生きなければならない。生きねば。「あって当然」という発想ではいけないのである。おっぱいなんてただの脂肪の塊、という言い方があるけれど、物理的な組成なんかどうだっていいのだ。と言うより、ただの脂肪の塊では不十分だと言うのなら、その人は一体おっぱいがなにでできていたらいいと言うのか。大事なのは、おっぱいというものを、女の子がいつも携えているという、その点だと思う。なんかね、女の子っていうのはね、胸部に脂肪の塊をふたつ作ってね、衣服を膨らませてね、暮しているんですよ。そこが本当に素敵なことだと僕は思うんですよ。いつも携えているという点では、脚の間に海綿体とかをいつもぶら提げている男も同じで、だからそれももちろん尊い。尾羽の長いニワトリとか、角の巨大なシカとか、生存競争に直接の効果をもたらさない余分な部位を持つ生きものは、それが大きければ大きいほど、そんなものに余計な力を注げるほどに自分はパワフルな生命体であるとアピールしていると言われるが、我々人類のおっぱいやちんこもその類でありつつ、さすがは文化を持つ理性的な生きものであるために、判りやすいサイズにだけ囚われるのではなく、ただもう、「あることに感謝」という、高次な捉え方をすることができる。優良な遺伝子がどうだとか、フェロモンがどうだとか、そういう下賤な獣的な発想じゃなくてね、女の子におっぱいがあって、男にちんこがあるという、ただもうそれが素晴らしいじゃないかと。
 だから僕の教団では、男性信者は女性信者の胸元に「ありがとう」と挨拶をするし、女性信者は男性信者の股間に「ありがとう」と挨拶をする。その心なんですね。